のほほん村通信

のほほん村のあみぐるみと、村長RISAKUの二胡、菜園、モノづくり。
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牧野博士の伸び茂る書斎にて

 秋晴れの一日、所用のついでに練馬区大泉の牧野記念庭園へ足を伸ばした。

 植物学者・牧野富太郎博士は高知県佐川の生まれ、「1925(大正15)年、当時は野趣豊かであった大泉の地に居を構え、1957(昭和32)年に満94歳の生涯を終えるまで、自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切に」(牧野記念庭園HPより)したという。

 高知の五台山にある牧野植物園は、高知っ子ならイヤでも訪れるおなじみの遠足スポットであるが、東京にも博士にちなんだ庭園があることは、つい最近まで知らずじまいであった。まったく、牧野先生ごめんなさいである。

 まず覗いた展示室では、牧野コレクションによる服部雪斎らの果物画が展示してあって、その緻密な描写にうっとり、……というか、じゅるり。

 その後しばし庭を散策。あちこちでムラサキシキブが可憐な実をつけていた。ただし、これは食べられないので念のため。

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庭園の周辺はすっかり様変わりして、団地やマンションが建ち、すぐ隣は自動車学校である。このときも教習生を呼び出すアナウンスが聞こえてきたが、それを知ってか知らずかひっそりと咲くホトトギス。

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 そして一角には博士が晩年こもって研究に没頭した書斎が当時のまま保存されている。建物だけ見るとスッキリとして「さすが偉大な業績をなす人は部屋も違うなぁ!」などと、今どき流行りの断捨離やクリアリングに走りたくなるが、ちょっと待った。

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実は博士自らがつけた「よう條書屋」(枝や草が伸び茂る書斎の意)のネーミングにふさわしい、植物資料の山だったらしい。こちらがその当時の書斎の写真(1939年洗硯社「洗硯」 楠瀬日年『よう條書屋 牧野富太郎博士の書斎』より)

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こうなると本家高知の牧野植物園の常設展示の再現コーナーのほうがより真に迫っているかもしれない。

 そういえば今は亡き伯父(過去記事「捨てられなかった中国語テキストとか切手とか」)の書斎もこんなであった。

 原稿や本の山に埋もれて寝起きして、他の人が見たらガラクタの山だが、伯父自身は何がどこにあるかちゃんと把握していて、私が遊びに行ってお絵描きのたびにどんな紙がいいとか、これこれこういう筆記具で描きたいとか言うと、書斎の山からすぐにピッタリのものを掘り出してきて、「ほら、やらぁよ」と渡してくれるのであった。

晩年、病気で入院した際、親類の者が親切心から部屋をきれいに片づけておいたところ、帰宅するや「何がどこにあるかひとっちゃあわからんなった!!」と怒ったという。

牧野博士と比べると、伯父に「おこがましい」と叱られそうだが、自分の信念を曲げない、一事にとことん没頭する点では土佐のいごっそう同士、通じるものがある。

 知らない人が見ればゴミの山でしかない「よう條書屋」が、博士にとっては宝の山であったように、素人目には無秩序で乱雑な自然界も、博士の目には多彩なルールに則った美しい世界に映っていたはずである。思えば、博士の書斎に築かれた紙の山も、元はといえば森の木々であった。

子どもの頃に植物園へ行っても、「ずいぶん植物が好きなおじいさんだなぁ」くらいの理解しかできなかったけれど、今あらためて牧野博士の人となりに興味を覚えるようになった。

 足元に咲くヤブラン。彼らの何代か前の祖先は牧野博士に手入れをしてもらっていたのかな。

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日も傾き、閉園時間が近づいてきたので早足で出口へ向かおうとして見上げたら、木の枝に鳥の死骸らしきものが引っかかっていてギョッとした。が、よくよく見るとでっかいホオの葉っぱであった。

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「ワハハ、引っかかったねや!」と、空の上から博士の笑い声を聞いた気がした。



◆参考図書:「花在れバこそ吾れも在り: 牧野記念庭園開園50周年」




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